外出です。久しぶりの。
少し遠く
山の奥地へ
お墓参り
ぼくはお婆ちゃんっ子だった。
いつも優しく
体を壊して食事に制限あることもしらず
カツが食べたいといったとき
お婆ちゃんは衣を全部とって食べていたのを見て
子供心にも
しまった!と
高校生になっても自転車で遊びに行くよといえば、当時珍しかったポカリスエットを冷やして待っていてくれた。
テレビゲームもわけわからなかっただろうに、一緒に笑ってくれていた。
大きくなっても年金暮らしなのにお小遣いて
ぼくが九州に移り住んで
夏のある日に
明後日帰るよって言った。
お婆ちゃんはうちに泊まる準備をしていた。
だけど
次の日にお風呂で亡くなってしまったと
親は、その日に迎えにいけば良かったと悲しみ
ぼくは、一日早く帰れたらと
鏡台には薙胤くん
と書かれた封筒が。
お小遣いだった。
ようだ。
残念な叔父さんがいて
財産からなにまで全て持って帰った。他の兄弟はお金はいいから、もう縁も終わりにしよう。それで話はまとまったようだけども。
ぼくへの封筒の中に込められたお婆ちゃんの想いまで奪っていった人を残念ながら許すことは未だに出来ない。毎年、この日になるたびに思い出し、怒りではなく、悲しくなってしまう。
封筒のあった鏡台だけは、なんとか持ち帰り、ずっとぼくの部屋に置いてある。
無宗教ではあるけれど
感謝の気持ちと人に優しくなれる気持ちを忘れないための大切なお墓参り。
その叔父以外、みんな集まる。大兄弟なので、もし宗教のように想いが通じるなら喜んでもらえるといいな。
人は別れによって
失うものと
そして得るものもある。
得ることができたものを大切にしなければと思う。
そんな思いで、墓前に向かおう。悲しみだけではなにも生まれないから。
そして、写真が残っていること
写真の表現力だとか、構図がどうだとか、敷居を高くするだけが本質じゃない。記録する。それは記憶ともなり、想いも記録され、ぼくはそういう環境で撮り続けたので、何事に対しても真剣に記録に取り組む。自分のための写真。
写真を本分としているぼくは残すことに全力をかける。
撮り逃したくない。記憶を、想いを。